シンガプーラ

シンガポール、わが懐かしき、新米母の時代を過ごした土地。
長男3才の夏、母子でかの地に向かう機上で、ダイアナ元妃の訃報を聞いた。わざわざ機長がアナウンスで伝えてくれたのだった。

独身時代に何度かシンガポールを訪れすっかり気に入った私、いつか住んでみたいと思うようになった。中国語(マンダリン)が通じるというのも大きかったし、南洋の空気と洗練された街、他のアジアの国にはない・・・何より、Dick Leeがいたから!

結婚後、2年住む機会が与えられた。お金はなかったけれど、若かったし、友達にも恵まれ、テレビや映画に出演するなど思いがけない経験もさせてもらった。長男はPAPの幼稚園に通い、英語と中国語を話し、すっかり現地に溶け込んでいた。彼が最初に覚えた国歌は君が代でもジャナ・ガナ・マナでもなく、マジュラー・シンガプーラ♪である。
いま思えば人生の中でもキラキラしていた時代のひとつ・・・


日本人というだけで、日本から来た駐在員家庭の方々や、外国企業に勤めるご主人を持つマダムともお付き合いがあった。まだ20代後半だった私は彼女らの話し相手的な立場だったが、彼女らの話に共通していたのはそのほとんどが夫と子供の(自慢あるいは不満)話で、自分自身が何をしているか・したいのかについては語られなかったということだろう。

中国やインドの暮らしを知っている私には、シンガポールの社会は洗練されていて豊かだったのに(ある部分では日本より先進的だった)、不便なところばかり取り上げるのにも驚いた。

自分が今彼女らの年齢になって思うのは、子供たちが大きくなれば考えなければならないことが増える。移住ではなくいずれ日本に帰ることがはっきりしている以上、なるべく日本に近い環境を維持したいと思うのは当然かもしれないということだ。(それに成金の駐在生活から戻ればまた一庶民の暮らしになるのだし)でも、なんにせよ、限りなくローカル(それも下のほう)に近い生活をしていた私には、彼女らは雲の上の人だった。


あのまま住み続けていたら、どんな人生になってたのかなと思う。私も夫も外国人なので永住権を取るまでスタートラインに立つことさえできないという問題があった。しかも収入が悪化すれば容赦なくそれを剥奪されてしまうという不安が、一生続く。第三国に住むというのは相当パワーが必要なのである。折しも香港が中国に返還された時期と重なり、大量の移住希望者がシンガポールに押し寄せていた。


帰国したからこそ次のステージ(劇団活動)に進めたのは事実だけれど、そう思えるようになるまで少し時間がかかった。


しかしこうしてみると、マイライフにもいろんな時代がある。東京は飛び抜けて長い。きっとまだやるべきことがあるのだろう。








ねこのめぞん

【 Life is ... 】

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