うららかな冬晴れの都内です。
新しい切り絵が完成したので、午後は何をしようかな。
幸せすぎるこの「何の予定もない」日曜日。
さて、昨日、一人雪の夜道を歩いていて突然すごいことに気づきました。
とても個人的なことなんですけど、私にとっては衝撃の気づきでした。
それは、ここ1年位の間、
ああ、怖い。これだけはやりたくないなぁ。
ああ、あそこにだけは行きたくないなぁ。
ああ、あの人苦手だけど仕事上関わらなくてはならない。
ああ、(子供の進路に関して)この選択肢だけはないよなぁ。
などなど、
絶対やりたくない、自分にはあり得ないと思っていることは誰にでもあるでしょうが、
私の場合特に物事を深刻に考えやすく、一人悶々と(あるいは周囲を巻き込み)
ことあるごとに悩んでいたんですね。
でもなぜか、いずれも意思に反してやるしかない流れになっていて。
結局渋々ながらもその一つ一つを受け入れてみたんです。
会社が移転して遠くなっても、とりあえず通ってみる。
苦手な人でもこちらから挨拶したり丁寧に接してみる。
子供が自分なりに考えて選んだ道は受け入れ協力する。
困っていることは我慢せず、率直に伝えてみる。
断られることばかりイメージせず、だめもとで頼んでみる。
すると意外なことに、手に負えない怪物だと思っていたものは、
全て張りぼて。
「どうってことない」ものばかりだったのでした。
大山鳴動して鼠一匹とはこのことか(→これ中国の古典かと思ってたらどうやらギリシアの諺らしい)・・・。
子供みたいに散々騒いだ自分が恥ずかしくなったのです。
それまで避けるために、危険性や対処法を探そうとネット検索に膨大な時間を費やし、集めた膨大な情報は一体何だったんだろう・・・。
(まぁ、余計な知識は増えましたが)
不思議なことに、どれも他の選択肢を選ぼうとあがいてみてもうまくいかなかった。
ほぼ強制的にその嫌なほうを受けるしかない状態だったわけですが、今思えばこれも私の目を覚ますには必要な工程だったような気がします。
と、バラバラな出来事に隠れていた共通のメッセージのようなものに気づき、うーむと唸ってしまったのでした。
私は子供のときから極度な怖がりで、それで助かってきた部分も多かったと思うのですが、
損してきた部分も結構あったんじゃないかなあと思いますね。
今年は信じすぎることなくでも必要以上に恐れることなく、もっと気楽に人や物事と関わってみようと思います。
0コメント